扁桃核ブログ

倫理問題に関する私見を述べるブログです。

読書記録:ジンメル「現在と将来における売春についての覚え書き」(1)

 ドイツの哲学者・社会学者であるゲオルク・ジンメル1892年の著作である「現在と将来における売春についての覚え書き」を読んだ感想です。

 

 ジンメルはこの覚書の中で、たびたび売春に関する世間の不当な道徳的態度を批判しています。そして、社会における売春の扱われ方を振り返ったり、売春が蔑まれる条件を考察したりしたうえで、「売春問題は、一般的な社会情勢と文化状況との関連で理解されなくては」  [1]ならないこと、そうしない限りは、「『絶対的な道徳』という尺度で売春を測るという危険を犯す」  [2]ことを指摘しています。

 

ところが、覚書の中にはジンメル自身も「絶対的な道徳」という尺度で売春を評価しているのではないかと思われる記述があります。おそらく、自らが批判する当時の世間の道徳的態度に、影響を受けてしまっていたのでしょう。

 

 たとえば、ジンメルは売春婦、特に貧しいそれに同情を寄せ、彼女らを弁護しているのですが、彼女らが身売りするようになった理由について、「純潔へのしつけが欠けていたり、また周りに悪いお手本があったせいかもしれません」 [3]と述べている箇所からは、ジンメルが売春は本来するべきでないものと考えていたように感じられます。また、過酷と思われる状態を受け入れつつ、少女たちが自由意志で売春をしていると「信じられるならば、道義上の怒りも無理ではない」 [4]という記述からは、売春をすることを好むことへの嫌悪感がうかがえます。

 

さらに、世間から「おかしいほど寛大」 [5]に扱われている高級売春婦の一種であるショーガールについて、彼女らほど恵まれていない「街娼と道徳的には髪の毛ほどの違いもないばかりか、ときに、はるかに打算的で吸血鬼のような存在」 [6]であると述べている箇所からは、ジンメルが他者からの不釣り合いな利得を嫌悪していたことだけでなく、売春婦の境遇に同情できようが、売春自体に対しては道徳的に好ましくないと考えていたことも推測できます。実際、後の段では、「もっとも困る悪」は「道徳的堕落、意識の一般的な劣化、売春婦たちの犯罪化といった」「売春の副次的な現象」ですが、売春自体も「副次的な悪」であることが明言されています [7]

 

*   *   *

 

以上のようなジンメルの矛盾した態度は、理論上は倫理的判断を下すことが適切でないと理解している場面でも、倫理的判断を全く下さないことは往々にして困難であることを示す事例の一つと言えるでしょう。

 

このような困難は無倫理主義者においてもしばしば生じるものと思われます。その際に無倫理主義者は、自己のものであれ他者のものであれ下された倫理的判断を退けようとするはずですが、やはり倫理的判断を完全に退けることは困難でしょう。ましてや倫理的判断がそもそも行われない完全な無倫理主義的理想の実現は、倫理的判断を行い得る存在がある限りほぼ不可能でしょう。

 

そこで、無倫理主義が広まれば、倫理的判断自体を除去すること以外に、倫理的判断が生じる原因を除去することにも努めようという思いが無倫理主義者に生じてくるという事態も起こるものと思われます。

 

そのような事態に直面した際に無倫理主義者にとって問題になることとして、倫理的判断が生じる原因を除去することも、無倫理主義者であるための必要条件とするべきか否かということが挙げられます。

 

私の答えは否です。その理由の一つとしては、無倫理主義者であるための条件を厳しくすることは無倫理主義の推進を妨げると思われることがあります。しかし、より根本的な理由は、もし倫理的判断発生原因の除去を無倫理主義者であるための必要条件とすると、無倫理主義の実践のためにひたすら意識改革に努めている者を、無倫理主義者ではないと判断しなければならなくなるということです。これは明らかに不合理なことです。

 

ジンメルは覚書の中で売春を悪であるとみなす風潮が生じる原因を検討したり、その原因の消滅について展望を示したりしています。彼は無倫理主義者ではありませんでしたが、読者への啓蒙によって自らが不公正と考える風潮が生じる原因の除去に一役買おうとしたものと思われます。ここから、倫理的判断発生原因の除去は無倫理主義者であるための十分条件ではないことがわかります。

 

つまり、無倫理主義は倫理的判断発生原因の除去とは必ずしも結びついたものではないのです。このことを認識することは、両者が並行されるようになってきた際に重要になってくるでしょう。

 

 [1] 「現在と将来における売春についての覚え書き」、北川東子編訳・鈴木直訳『ジンメル・コレクション』筑摩書房ちくま学芸文庫〉、1999年、41頁。

 [2] 同上。

 [3] 同上、34頁。

 [4] 同上、35頁。

 [5] 同上。

 [6] 同上。

 [7] 同上、51頁。

 

編集記録1:2021年3月9日、注[1]の書式を修正しました。

編集記録2:2023年10月13日、「#無倫理主義」「#ジンメル」「#売春」のハッシュタグを付け、編集記録の書式を改めました。