扁桃核ブログ

倫理問題に関する私見を述べるブログです。

無倫理主義の効用とその限界

 無倫理主義は倫理的攻撃を理論闘争上無効化する際に有用です。「~するべきである」とか「~しないべきである」(多くの場合、「~するべきでない」と表現される)とかといった倫理的な判断を前提とした攻撃的主張――それが口頭や文章で行われようと内心で行われようと――に対して、無倫理主義を用いて「するべきであることは何も存在しない」とか「しないべきであることは何も存在しない」とかと主張することによって、攻撃対象――それが自己であれ他者であれ――を防衛することができるのです。

 

 例として、「水に落ちた犬を見かけたら助けろ」という命令が発せられた場合を考えてみましょう。この命令が「犬の命はできる限り助けるべきである」という倫理的判断を前提として発せられたのであれば、この命令に従わない者が命令者やその支持者から「悪人である」とか「善人ではない」といった評価を攻撃的に受けることが予想されます。その際に「するべきであることは何も存在しない」という無倫理主義的主張によって命令の前提である倫理的判断を否定することができれば、命令に反抗しても倫理的攻撃的評価を受けることを免れることができるのです。

 

 このような無倫理主義的防衛はあくまでも直接的には理論上で行われるだけのものなので、うまく主張できてもその正当性が利害関係や権力関係などの実生活上の原因などによって認められないことはあり得ます。

 

 また、無倫理主義的主張の正当性が認められても、倫理的主張により発せられた命令・禁止自体を必ずしも打ち消せるとは限りません。倫理的主張とは別の理由付けがなされたり、理由付けの必要性が否定されたりして、命令・禁止自体は取り消されないということは十分あり得ます。前者の例としては、先述の「水に落ちた犬を見かけたら助けろ」という命令を、命令者が純粋な憐れみから発し続ける場合が挙げられます。そのような場合には、命令に背けば倫理的評価は伴わなくとも何らかの攻撃を受けることが十分考えられるのです。

 

 さらに、無倫理主義を採用すると、倫理的攻撃に対して倫理的反撃を加えることはできなくなります。「~するべきである」という主張に対して、倫理主義者なら理論闘争によって逆に「~しないべきである」(狭義の「~するべきでない」)ことを主張することが可能かもしれませんが、無倫理主義者は「~するべきである」ことを否定するのと同様に「~しないべきである」ことをも否定しているので、倫理的反撃は不可能なのです。

 

 例えば、魯迅は犬の恒常的な凶暴さを理由に、「水に落ちた犬」は助けないでむしろ打つべきことを主張しましたが  [1]、このようなことは無倫理主義者には不可能となります。



  [1] 「『フェアプレイ』はまだ早い」、竹内好編訳『魯迅評論集』岩波書店岩波文庫〉、1981年、74-76頁。

 

※2021年3月9日、本文中最後の一文の文字の大きさと注[1]の書式を修正しました。