扁桃核ブログ

倫理問題に関する私見を述べるブログです。

読書記録:ジンメル「現在と将来における売春についての覚え書き」(4)

読書記録:ジンメル「現在と将来における売春についての覚え書き」(1)(2)(3)

 

 前々回(冒頭リンク(2)の記事)と前回(冒頭リンク(3)の記事)、ゲオルク・ジンメルの著作「現在と将来における売春についての覚え書き」(1892年)における売春に対する世間の道徳的態度への分析をまとめました。今回はその分析内容に基づき、売春問題に関して無倫理主義が世間にもたらす利益と損害について考えてみます。もっとも、ジンメルが分析の対象としたのは主に当時の西洋社会であるため、現在の社会についても分析内容が当てはまるとは限りませんし、そもそも当時の西洋社会についてもジンメルの分析が妥当だったのかどうかも私にはわかりません。ですから本稿は、実際の現状についての考察を述べたものではなく、ジンメルの分析が妥当するような状況があった場合に、そこで無倫理主義が世間にもたらすであろう利益と損害についての仮定的考察を述べたものということになります。また、ここで考察する利益と損害は無倫理主義の本来的な機能に直接関連するもの、すなわち倫理的攻撃の無効化に直接関連するものに限定します[1]。なお、実際には無倫理主義を採用しても他者に受け入れられなかったり自分自身うまく実践できなかったりして倫理的攻撃があまり無効化されないこともあるでしょうが、ここでは無倫理主義を採用すれば基本的に倫理的攻撃は無効化されると仮定します。

 ジンメルによると世間――ここでは上流階級を指します(冒頭リンク(2)の記事参照)――は売春を道徳的な悪とみなすそうですが、そのようになる原因を彼は三つ指摘していました。まずこの原因に応じて売春に対する世間の道徳的態度に関する現象を区分し、各現象において無倫理主義が世間にもたらす利益と損害を考えていきます。

 

1)不幸な者へのやましさの隠蔽に関する現象

 無倫理主義を採用すればやましさのうちの倫理的な部分を否定することができます。不幸な者へのやましさという不快な感情には、「不幸な者をそのような状況に追いやらないでいるべきだった」というような倫理的判断に基づく自身への攻撃による部分が通常含まれているでしょうが、この倫理的判断を無倫理主義は否定するのです。これは世間にとって利益となるでしょう。

 しかし、無倫理主義はやましさの非倫理的な部分までは否定することができません。倫理的判断を働かせなくても同情心などから人を不幸な状況に追いやったことに不快な感情を抱き、その結果自身を攻撃することはあるでしょうが、このような感情や攻撃を打ち消すことは無倫理主義にはできないのです。

 また、世間がやましさ、特にその倫理的判断に基づく部分を隠蔽するのは不幸な者(売春問題においては売春婦)による糾弾――実際になされるものにせよ想像されるだけのものにせよ――から自身を防衛するためでしょうが、この糾弾のうちの倫理的な部分も無倫理主義は否定することができます。不幸な者が世間を糾弾する際にも「私たちを不幸な状況に追いやらないでいるべきだった」というような倫理的判断に基づいたりそれを主張したりすることがあるでしょうが、そのような判断を無倫理主義は否定します。

 ただし、ここでもやはり無倫理主義は非倫理的な部分までは否定することができません。倫理的判断が打ち消されても、単なる反感の発露や態度変更を迫る手段としての糾弾はしばしば行われるでしょうが、無倫理主義はこれを打ち消すことはできないのです。

 以上が不幸な者へのやましさの隠蔽に関する現象において無倫理主義がもたらす利益とその限界です。次に、この現象において無倫理主義が世間にもたらす損害について見ていきます。

 無倫理主義を採用すると誰かに道徳的憤激を投げつけることはできなくなります。これはすでに売春婦、特にその中の不幸な者に対して道徳的憤激を投げつけている世間にとっては損害となるでしょう。なぜならば、道徳的ではない憤激を投げつけることは依然としてできるものの、道徳の裏付けがないと憤激が得る威力や共感は減ずることが多いだろうからです。

 

2)貨幣の浸透と女性の地位向上に関する現象

 この現象については前回述べた内容だけでは無倫理主義のもたらす利益と損害を考察する前提として十分ではないので、まずここで補足的説明をしておきます。

 ジンメルは貨幣の浸透と女性の地位向上によって売春が軽蔑されるようになる経緯を次のように説明しています。貨幣は社会に浸透するにつれて「あらゆるものの等価物となり無色透明となって」、「この世にあるもっとも没個性的なもの」になっていきます。つまり、貨幣は他の物との交換手段としてではないそれ自体としての価値が非常に低くなっていくのです。このような現象が「現代西洋社会のような発達した社会」で進行する一方、「人間のほうはそれにたいしてますます個性を強めて」いくので、「女の献身のような個人的な価値」は上昇していきます。すると、女性の献身というそれ自体としての価値が高いものを貨幣というそれ自体としての価値が低いものと交換する売春は「どこか不釣り合いな恥ずかしい行為」とみなされるようになるのです[2]

 こうして成立した売春への軽蔑心は前回述べたように必ずしも売春が道徳的な悪であるという判断をもたらすわけではありませんが、そのような判断を下しやすくはします。けれども、そのような判断は無倫理主義を採用すると下せなくなります。これは世間にとって損害となることがあるでしょう。上述の原因により世間はしばしば売春および売春婦に不快な感情を抱き、それが軽蔑心の源泉となるのでしょうが、その不快な感情を倫理的非難を行うことによって解消することができなくなるからです。単に売春および売春婦を軽蔑するだけなら無倫理主義に反しませんが、それだけでは不快な感情をあまり解消できないでしょう。

 

                                   (続く)

 

[1] 無倫理主義の本来的機能を倫理的攻撃の無効化とするのは、倫理の核心的機能が特定の活動――不作為や精神活動を含む――に攻撃的態度を向けさせることだと考えるからです。このことについては私のTwitterモーメント「倫理的言明の核心的意味」、2021年1月5日、https://twitter.com/i/events/1346134713925177345?s=20を参照していただきたいです。このモーメントにおける所説は粗雑であり、特に「許す」という語が表す内容が攻撃的感情のみに関わるかのように述べたのは妥当ではなかったと現在では思っていますが、「~するべきである」という典型的な倫理的言語表現の意味に関する私の考えの大略はここに示されています。

[2] 「現在と将来における売春についての覚え書き」、北川東子編訳・鈴木直訳『ジンメル・コレクション』筑摩書房ちくま学芸文庫〉、1999年、38-40頁。