扁桃核ブログ

倫理問題に関する私見を述べるブログです。

読書記録:ジンメル「現在と将来における売春についての覚え書き」(4)

読書記録:ジンメル「現在と将来における売春についての覚え書き」(1)(2)(3)

 

 前々回(冒頭リンク(2)の記事)と前回(冒頭リンク(3)の記事)、ゲオルク・ジンメルの著作「現在と将来における売春についての覚え書き」(1892年)における売春に対する世間の道徳的態度への分析をまとめました。今回はその分析内容に基づき、売春問題に関して無倫理主義が世間にもたらす利益と損害について考えてみます。もっとも、ジンメルが分析の対象としたのは主に当時の西洋社会であるため、現在の社会についても分析内容が当てはまるとは限りませんし、そもそも当時の西洋社会についてもジンメルの分析が妥当だったのかどうかも私にはわかりません。ですから本稿は、実際の現状についての考察を述べたものではなく、ジンメルの分析が妥当するような状況があった場合に、そこで無倫理主義が世間にもたらすであろう利益と損害についての仮定的考察を述べたものということになります。また、ここで考察する利益と損害は無倫理主義の本来的な機能に直接関連するもの、すなわち倫理的攻撃の無効化に直接関連するものに限定します[1]。なお、実際には無倫理主義を採用しても他者に受け入れられなかったり自分自身うまく実践できなかったりして倫理的攻撃があまり無効化されないこともあるでしょうが、ここでは無倫理主義を採用すれば基本的に倫理的攻撃は無効化されると仮定します。

 ジンメルによると世間――ここでは上流階級を指します(冒頭リンク(2)の記事参照)――は売春を道徳的な悪とみなすそうですが、そのようになる原因を彼は三つ指摘していました。まずこの原因に応じて売春に対する世間の道徳的態度に関する現象を区分し、各現象において無倫理主義が世間にもたらす利益と損害を考えていきます。

 

1)不幸な者へのやましさの隠蔽に関する現象

 無倫理主義を採用すればやましさのうちの倫理的な部分を否定することができます。不幸な者へのやましさという不快な感情には、「不幸な者をそのような状況に追いやらないでいるべきだった」というような倫理的判断に基づく自身への攻撃による部分が通常含まれているでしょうが、この倫理的判断を無倫理主義は否定するのです。これは世間にとって利益となるでしょう。

 しかし、無倫理主義はやましさの非倫理的な部分までは否定することができません。倫理的判断を働かせなくても同情心などから人を不幸な状況に追いやったことに不快な感情を抱き、その結果自身を攻撃することはあるでしょうが、このような感情や攻撃を打ち消すことは無倫理主義にはできないのです。

 また、世間がやましさ、特にその倫理的判断に基づく部分を隠蔽するのは不幸な者(売春問題においては売春婦)による糾弾――実際になされるものにせよ想像されるだけのものにせよ――から自身を防衛するためでしょうが、この糾弾のうちの倫理的な部分も無倫理主義は否定することができます。不幸な者が世間を糾弾する際にも「私たちを不幸な状況に追いやらないでいるべきだった」というような倫理的判断に基づいたりそれを主張したりすることがあるでしょうが、そのような判断を無倫理主義は否定します。

 ただし、ここでもやはり無倫理主義は非倫理的な部分までは否定することができません。倫理的判断が打ち消されても、単なる反感の発露や態度変更を迫る手段としての糾弾はしばしば行われるでしょうが、無倫理主義はこれを打ち消すことはできないのです。

 以上が不幸な者へのやましさの隠蔽に関する現象において無倫理主義がもたらす利益とその限界です。次に、この現象において無倫理主義が世間にもたらす損害について見ていきます。

 無倫理主義を採用すると誰かに道徳的憤激を投げつけることはできなくなります。これはすでに売春婦、特にその中の不幸な者に対して道徳的憤激を投げつけている世間にとっては損害となるでしょう。なぜならば、道徳的ではない憤激を投げつけることは依然としてできるものの、道徳の裏付けがないと憤激が得る威力や共感は減ずることが多いだろうからです。

 

2)貨幣の浸透と女性の地位向上に関する現象

 この現象については前回述べた内容だけでは無倫理主義のもたらす利益と損害を考察する前提として十分ではないので、まずここで補足的説明をしておきます。

 ジンメルは貨幣の浸透と女性の地位向上によって売春が軽蔑されるようになる経緯を次のように説明しています。貨幣は社会に浸透するにつれて「あらゆるものの等価物となり無色透明となって」、「この世にあるもっとも没個性的なもの」になっていきます。つまり、貨幣は他の物との交換手段としてではないそれ自体としての価値が非常に低くなっていくのです。このような現象が「現代西洋社会のような発達した社会」で進行する一方、「人間のほうはそれにたいしてますます個性を強めて」いくので、「女の献身のような個人的な価値」は上昇していきます。すると、女性の献身というそれ自体としての価値が高いものを貨幣というそれ自体としての価値が低いものと交換する売春は「どこか不釣り合いな恥ずかしい行為」とみなされるようになるのです[2]

 こうして成立した売春への軽蔑心は前回述べたように必ずしも売春が道徳的な悪であるという判断をもたらすわけではありませんが、そのような判断を下しやすくはします。けれども、そのような判断は無倫理主義を採用すると下せなくなります。これは世間にとって損害となることがあるでしょう。上述の原因により世間はしばしば売春および売春婦に不快な感情を抱き、それが軽蔑心の源泉となるのでしょうが、その不快な感情を倫理的非難を行うことによって解消することができなくなるからです。単に売春および売春婦を軽蔑するだけなら無倫理主義に反しませんが、それだけでは不快な感情をあまり解消できないでしょう。

 

                                   (続く)

 

[1] 無倫理主義の本来的機能を倫理的攻撃の無効化とするのは、倫理の核心的機能が特定の活動――不作為や精神活動を含む――に攻撃的態度を向けさせることだと考えるからです。このことについては私のTwitterモーメント「倫理的言明の核心的意味」、2021年1月5日、https://twitter.com/i/events/1346134713925177345?s=20を参照していただきたいです。このモーメントにおける所説は粗雑であり、特に「許す」という語が表す内容が攻撃的感情のみに関わるかのように述べたのは妥当ではなかったと現在では思っていますが、「~するべきである」という典型的な倫理的言語表現の意味に関する私の考えの大略はここに示されています。

[2] 「現在と将来における売春についての覚え書き」、北川東子編訳・鈴木直訳『ジンメル・コレクション』筑摩書房ちくま学芸文庫〉、1999年、38-40頁。

読書記録:ジンメル「現在と将来における売春についての覚え書き」(3)

 

 読書記録:ジンメル「現在と将来における売春についての覚え書き」(1)2

 

前回(冒頭リンク(2)の記事)に引き続き、世間の売春に対する道徳的態度へのジンメルの分析をまとめていきます。

 

ジンメルは、現代社会において売春が軽蔑される原因についても解説しています。彼によれば、貨幣の浸透と女性の地位向上との両方の実現が、売春が軽蔑されるようになる社会的条件であるそうです。この条件を「現代西洋社会のような発達した社会」は満たすため、売春は軽蔑されるとのことです[1]

 

 この説明が妥当なものであるかどうかは私にはわかりません。ただし、妥当であったとしても次のことには注意しなければならないでしょう。軽蔑されるからといって必ずしも道徳的に悪であるとみなされるわけではないということです。例えば、バラエティ番組を視聴することを軽蔑する人はある程度存在しますが、そういった人たちのすべてがバラエティ番組を視聴することを道徳的な悪であるとまで思っているわけではありません。

 

もちろん尊敬される行為よりは軽蔑される行為の方が悪であるとみなされやすいでしょうから、貨幣の浸透と女性の地位向上とが本当に売春が軽蔑されるようになる条件であるのならば、それらは売春を道徳的な悪であるとみなす風潮を助長するものではあるのでしょう。また、中には「女の献身のような個人的な価値」[2]と「貨幣のような没個性的な価値」[3]とを交換すること自体を理由として、すなわち、貨幣の浸透と女性の地位向上とが直接の原因となって売春を道徳的な悪であるとみなす人もいるのかもしれません。しかし、前回述べた不幸な者へのやましさを隠蔽する意図や、後述する事情が直接の原因となって売春が道徳的な悪であるとみなされることもあるということには留意しておかなければならないでしょう。

 

 次にジンメルは、現代社会において売春が必要とされる原因について解説します。それによると、「高度に発達した文化」においては結婚のために必要な男性の「精神的あるいは経済的そして性格的な成熟」が「性的な成熟」よりも遅れるために売春が必要とされるとのことです[4]

 

 世間はこの売春が必要とされる現実の事情をなかなか認めようとせず、「道徳性が高まれば、このような時期尚早のさかりを抑えることができる」[5]と考えるそうなのですが、その世間自体は時期尚早のさかりを抑えて売春を行わないわけではないそうです。「世間は、売春問題ではあれほど敏感な反応をして、自分たちの生き残りのために必要な犠牲者にたいしてはあれほどの思いやりがあります」[6]という記述は、前回触れたように世間が「売春婦たちが高級であればあるほど、攻撃の矛先」を緩めることを指しているのでしょう。

 

 最後にジンメルは、将来の人間の心理的なありかたについては予想が困難であるとしつつも、簡単な予想をしています。そこに次のような記述があります。

 

単婚が存続するかぎり、一夫を守って生きている女性には、多くの関係をもつ女性にたいしてよりも、人格的な価値が上だという気持ちが寄せられるでしょう。結婚が男女関係の最終的な目標であるかぎりは、売春は必要悪としか感じられないことにかわりはないでしょう。性的な成熟と結婚資格とのあいだに葛藤があるための結果です。これが生む悲劇は、犠牲者を個人的に罪を犯した本人ではなく、むしろ社会的な罪の対象と考えたとしても、なくなることはありません。ただ、ましになるだけです。[7]

 

これが、世間が売春を道徳的な悪であるとみなすようになるもう一つの原因です。よって、不幸な者へのやましさを隠蔽する意図や貨幣の浸透と女性の地位向上、単婚が男女関係の最終的な目標であることが原因となり、世間は売春を道徳的な悪とみなすようになるというのがジンメルの分析であるとまとめることができます。

 


[1] 「現在と将来における売春についての覚え書き」、北川東子編訳・鈴木直訳『ジンメル・コレクション』筑摩書房ちくま学芸文庫〉、1999年、37-40頁。

[2] 同上、39頁。

[3] 同上。

[4] 同上、42頁。

[5] 同上。

[6] 同上、43頁。

[7] 同上、52頁。

 

編集記録1:2020年1月4日、注[1]を修正しました。

編集記録2:2020年2月13日、冒頭の過去記事題名二つのリンク先URLを現在のものに修正しました。

編集記録3:2020年8月4日、本文・注を修正しました。

編集記録4:2021年3月10日、注[1]の書式と本文を修正しました。

編集記録5:2023年10月17日、「#ジンメル」「#売春」のハッシュタグを付け、編集記録の書式を改めました。

読書記録:ジンメル「現在と将来における売春についての覚え書き」(2)

 以前の記事ゲオルク・ジンメルの著作「現在と将来における売春についての覚え書き」(1892年)について感想を書きました。その時は、主に売春自体に対するジンメルの道徳的判断を取り上げました。今回は同著作について、世間の売春に対する道徳的態度へのジンメルの分析をまとめてみます。

 その前に、ジンメルがこの覚書において「世間」あるいは「立派な世間」という語で指し示している対象について説明する必要があるでしょう。なぜなら、ジンメルは世間という語を一般的な用法の場合よりもやや狭い対象を指す語として使っているからです。そのことは以下に引用する覚書の冒頭の記述からもわかります。

 

   売春について「立派な世間」が示す道義上の憤怒には、あきれた点がひとつならずあります。売春は、国民全体が「立派な世間」によって追いつめられた状況の必然的な結果なのですが、それなのに、まるでそうではないという態度だからです。 [1]

 

この記述からは、「立派な世間」という語が指し示す対象が「国民全体」とは異なることがわかります。かと言って外国人のことを指しているとも考え難いので、「立派な世間」とは国民全体ではなくその一部のことであると推測できます。

では、国民全体の中のどのような部分が世間なのかを次に特定しなければなりません。そのための手掛かりとしてはまず、「世間は、不幸な人々のうちに、おのれの敵を見てとる」 [2]とか「不幸な人々は世間を憎悪し、世間も彼らを憎悪し」 [3]とかといった記述が挙げられます。ここから、世間は不幸ではない人々、すなわち幸福な人々のうちに含まれることがわかります。

さらに、世間が不幸な人々を敵視する事例に、「世間は、高級売春にたいしてはおかしいほど寛大」 [4]であるのに、「通りに立つ哀れな売春婦たちにたいしては、道徳的憤激のすべてを投げつける」 [5]ことが含められており、高級売春に対して寛大である具体例として、高級売春婦に色々なサロンへの出入りが許されることが挙げられていることから [6]、世間とは単に幸福な人々に属するだけでなく、高級買春やサロンへの参加ができるような上流階級に属してもいる人々のことを指していると考えられます。

以上でジンメルが世間という語で指し示す対象が推定できたので、以下では本題である世間の売春に対する道徳的態度へのジンメルの分析を叙述していきます。

まずジンメルは、上述した通り世間が「通りに立つ哀れな売春婦たちにたいしては、道徳的憤激のすべてを投げつける」のに、「売春婦たちが高級であればあるほど、攻撃の矛先」 [7]を緩めることを指摘し、その原因として世間が「不幸な人々のうちに、おのれの敵を見てとる」ことを挙げています。「不幸な人々というのは、自分のせいにせよ、そうでないにせよ、いずれにせよ社会で損をしている人」であるので、「こんなひどい場しか与えられない、と社会全体を糾弾する」ため、「そうした人たちは、社会がいじめる対象」になるというのです [8]

 この説明では、世間が哀れな売春婦に憤激を表す理由は示されていますが、その憤激が道徳的なものとなる理由は示されていません。しかし、その後に続く貧乏人に対する金持ちの態度についての記述は、それが哀れな売春婦だけでなく不幸な者全般に対して世間が道徳的憤激を表すことを例証するためになされているのであろうことを考慮すると、不幸な者への憤激が道徳時なものとなる原因を推測する材料となり得るでしょう。その記述は次の通りです。

 

  裕福な人間が怒り狂ったように乞食を追い払うことを見かけることがあります。日常茶飯事です。まるで、貧乏なのは道徳的な不正であって、道徳的な憤激を受けても仕方ないとでもいうようです。じつは、金持ちには、貧乏人にたいしてのやましさがあるのです。道徳的に正当という仮面をはぐと、このやましさがこっそり隠れています。ただどうしようもないことには、徹底して隠されていて、また仮装理由があまりに強力なので、本人もそう信じこんでしまうのです。 [9]

 

このようにジンメルは、世間が不幸な者に対して表す憤激が道徳的なものになるのは、世間が不幸な者に対してひそかにやましいと思っているからであると分析しています。世間は、自分たちが不幸な者を不幸な状況に追いやったことを道徳的に好ましくないと感じているからこそ、それを隠蔽するために、道徳的に好ましくないのは不幸であること自体であり、それゆえ道徳的な憤激を受けるのがふさわしいのは不幸である者自身の方であると思おうとし、実際にそう思い込むということなのでしょう。

 

(続く)



 [1] 「現在と将来における売春についての覚え書き」、北川東子編訳・鈴木直訳『ジンメル・コレクション』筑摩書房ちくま学芸文庫〉、1999年、34頁。

 [2] 同上、36頁。

 [3] 同上。

 [4] 同上、35頁。

 [5] 同上、36頁。

 [6] 同上、35-36頁。

 [7] 同上、36頁。

 [8] 同上。

 [9] 同上、36-37頁。

 

 ※2020年3月30日、本文冒頭の語句のリンク先URLを現在のものに修正しました。

※※2021年3月10日、注[1]の書式を修正しました。

無倫理主義の採否決定要因(2)

 前回の記事の続きです。

 

まず、前回の最後に挙げた、現時点で私が思いつく無倫理主義の採否決定要因を再掲します。

 

①無倫理主義の採用による利害得失。

②無倫理主義に対して抱く自己または他者の感想。

③無倫理主義の内容の信憑性。

 

これらの項目は相互に乖離しているのではなく、大きく重複しています。例えば、①や③も感想として現れる以上は本来②のうちに含まれます。また、①を広義に取れば、無倫理主義の採否はすべて直接的にはやはり①によって決定されるのであり、②や③は利害得失の判断材料として間接的に採否決定の要因となるに過ぎないと考えることもできます。

 

そこで、本稿では便宜的に①の無倫理主義の採用による利害得失とは直接に倫理的圧迫に関するもののこととし、そのような①や③を除いた無倫理主義に関する感想を②とします。

 

 ①については前回略述したので、以下では②③について解説していきます。

 

まず、②のうち無倫理主義を知った当初における感想の例としては、次のものが挙げられます。「無倫理主義」という語を言ったり聞いたり書いたり見たりした際に感じる快・不快の情動や、「無倫理主義」という語の意味から思い浮かぶ「新しい」「力強い」とか「安直だ」「危険だ」とかといった印象、「現代の世相を反映している」とか「非社交的な人物に受け入れられやすそうだ」とかといった思考などです。

 

これらの情動や印象・思考は影響しあっており、時とともに変化していきます。例えば、無倫理主義という語に「新しい」という印象を抱き、それが抱いた者にとって好ましいものだった場合、それが情動に影響して当初は抱かなかった「喜び」を感じさせたり、思考に影響してその人物にとって好ましい思考をもたらすように誘導したりします。

 

「新しい」という印象が好ましい思考を誘導する場合、印象を抱いたのが革新的な人物であれば、「無倫理主義は旧来の謬見を刷新する」と思考するように誘導するというような、「新しい」という印象から直接連想できる思考を誘導することももちろんあるでしょうが、親欧米的な人物が「新しい」という印象からまず欧米先進国を連想し、そこから「無倫理主義は欧米的な発想から生まれたのだろう」と思考するよう誘導するというような、「新しい」という印象から直接は連想できない思考を誘導することもあるでしょう。

 

逆に、同じく「新しい」という印象を抱いても、それが抱いた者にとっていとわしいものだった場合、それが情動に影響して当初は抱かなかった「怒り」を感じさせたり、思考に影響してその人物にとっていとわしい思考――「無倫理主義のような新しい思想は旧来保たれてきた調和を乱す」というような――をもたらすように誘導したりします。

 

さらに、これらの感想は無倫理主義自体とは直接関連しない意識内容の影響を受けることもあります。例えば、無倫理主義に対して「新しい」という印象を持っていた革新的な人物が、革新的な考えを捨てて保守的な考えを持つように変わった際、無倫理主義に対する「新しい」という印象は変わっていないのに、その印象の影響を受けて無倫理主義に対して抱く情動や思考は、肯定的なものから否定的なものに変わるといったことです。

 

 以上のような感想を他者が抱いた場合、それが②のうちの他者の感想であると一往は言えるでしょう。しかし、感想自体は抱いた本人にしか分からないので、②のうちの他者の感想とは、実際には他者の言動やその記録から推測したものでしかないのです。

 

 そのような他者の感想は、それに多大な関心を寄せる者にとっては無倫理主義の採否決定要因となり得ます。

 

最も分かりやすい例は、内心では無倫理主義を採用しているのに、他者が無倫理主義に対していとわしい感想を抱いているように思われたため、外観では無倫理主義を採用していないように装うといったものでしょう。この例では他者の感想は外観上の無倫理主義の採否に影響しているだけですが、他者の感想に説得力があった場合には、内心上の無倫理主義の採否に影響することもあり得ます。

 

 ③の無倫理主義の内容の信憑性は、無倫理主義を「倫理は無い」という思想と「倫理を無くす」という思想とに大別した際に、主に前者の思想に関して問題となります。

 

ただし、後者の思想に付随して唱えられるであろう「倫理を無くすのは有益なことだ」とか「みんな倫理を無くすことを望んでいる」とかといった思想を広義の無倫理主義の一部とみなす場合は、それらの付随的思想の信憑性も③の中に含まれます。もっとも、本稿では直接に倫理的圧迫に関する利害得失は①の内容としたので、ここでの「倫理を無くすのは有益なことだ」という思想は①に含まれない有益性に関する思想――「倫理を無くすと感情や意志を誤解しにくくなるから、それは有益なことだ」というような――を指しています。

 

よって、「無倫理主義の内容」と一口に言っても、複数の思想を意味し得ることに注意しなければなりません。

 

これらの複数ある思想は、どれもが「倫理を無くす」という思想のよりどころとなることができますが、「倫理は無い」という思想が「倫理を無くす」という思想のよりどころとなる場合は、両者の「倫理」という語は異なった内容を指すことになるでしょう。すでに「無い」ものを「無くす」ことはできないからです。

 

編集記録1:2020年3月30日、本文冒頭の語句のリンク先URLを現在のものに修正しました。

編集記録2:2023年10月13日、「#無倫理主義」のハッシュタグを付け、編集記録の書式を改めました。

無倫理主義の採否決定要因(1)

 無倫理主義は倫理的強者よりも倫理的弱者の間にまず普及するでしょう。倫理的弱者の方が、以前の記事で述べたような無倫理主義の効用に魅力を感じることが多いと思われるからです。

 

しかし、無倫理主義が認知されていくにつれて、その採用が倫理的強弱のいずれかと結びつく傾向は弱まっていくでしょう。なぜならば、ある者が倫理的に強者であるか弱者であるかは場合によって異なるので、同一人物がある時は強者であり別のある時は弱者であったり、ある面では強者であると同時に別のある面では弱者であったりするのが一般的だからです。倫理的強弱がこのように流動的であると、無倫理主義を採用することによって得る利益と蒙る損害のどちらが大きいかは判別しにくいため、利害得失は無倫理主義の採否を決める要因とはならないことが多いでしょう。

 

よって、無倫理主義の普及当初に、自身が倫理的弱者であることが要因となって無倫理主義を採用した者の中にも、無倫理主義の採用によって受ける損害が具現するにつれて、無倫理主義を放棄する者が現れてくるものと思われます。

 

もっとも、利害得失が無倫理主義の採否を決定する要因となることが完全になくなることはないでしょう。無倫理主義の採用による利益が損害よりも大きいことが明らかである場合には、そのことが無倫理主義の最大の魅力となることは十分あり得ます。この場合、やはり倫理的弱者の方が利益を受けることが多いでしょうが、倫理的強者が利益を受けることもないわけではありません。倫理的強者であることに負い目を感じている者も、無倫理主義の採用による利益を受けるでしょう。

 

 とはいえ、やはり先述したように、基本的には無倫理主義の普及につれて、その採否を利害得失によって決めることは少なくなっていくでしょう。ほかに無倫理主義の採否を決める要因となるものとして私が今思い浮かぶのは、無倫理主義の採用による利害得失を①とすると、以下のようなものです。

 

②無倫理主義に対して抱く自己または他者の感想。

③無倫理主義の内容の信憑性。

 

 次回はこれらの内容について解説していきます。

 

編集記録1:2020年3月30日、文中の語句のリンク先URLを現在のものに修正しました。

編集記録2:2021年3月9日、本文中最後の一文の文字の大きさを修正しました。

編集記録3:2023年10月3日、「#無倫理主義」のハッシュタグを付け、編集記録の書式を改めました。

読書記録:ジンメル「現在と将来における売春についての覚え書き」(1)

 ドイツの哲学者・社会学者であるゲオルク・ジンメル1892年の著作である「現在と将来における売春についての覚え書き」を読んだ感想です。

 

 ジンメルはこの覚書の中で、たびたび売春に関する世間の不当な道徳的態度を批判しています。そして、社会における売春の扱われ方を振り返ったり、売春が蔑まれる条件を考察したりしたうえで、「売春問題は、一般的な社会情勢と文化状況との関連で理解されなくては」  [1]ならないこと、そうしない限りは、「『絶対的な道徳』という尺度で売春を測るという危険を犯す」  [2]ことを指摘しています。

 

ところが、覚書の中にはジンメル自身も「絶対的な道徳」という尺度で売春を評価しているのではないかと思われる記述があります。おそらく、自らが批判する当時の世間の道徳的態度に、影響を受けてしまっていたのでしょう。

 

 たとえば、ジンメルは売春婦、特に貧しいそれに同情を寄せ、彼女らを弁護しているのですが、彼女らが身売りするようになった理由について、「純潔へのしつけが欠けていたり、また周りに悪いお手本があったせいかもしれません」 [3]と述べている箇所からは、ジンメルが売春は本来するべきでないものと考えていたように感じられます。また、過酷と思われる状態を受け入れつつ、少女たちが自由意志で売春をしていると「信じられるならば、道義上の怒りも無理ではない」 [4]という記述からは、売春をすることを好むことへの嫌悪感がうかがえます。

 

さらに、世間から「おかしいほど寛大」 [5]に扱われている高級売春婦の一種であるショーガールについて、彼女らほど恵まれていない「街娼と道徳的には髪の毛ほどの違いもないばかりか、ときに、はるかに打算的で吸血鬼のような存在」 [6]であると述べている箇所からは、ジンメルが他者からの不釣り合いな利得を嫌悪していたことだけでなく、売春婦の境遇に同情できようが、売春自体に対しては道徳的に好ましくないと考えていたことも推測できます。実際、後の段では、「もっとも困る悪」は「道徳的堕落、意識の一般的な劣化、売春婦たちの犯罪化といった」「売春の副次的な現象」ですが、売春自体も「副次的な悪」であることが明言されています [7]

 

*   *   *

 

以上のようなジンメルの矛盾した態度は、理論上は倫理的判断を下すことが適切でないと理解している場面でも、倫理的判断を全く下さないことは往々にして困難であることを示す事例の一つと言えるでしょう。

 

このような困難は無倫理主義者においてもしばしば生じるものと思われます。その際に無倫理主義者は、自己のものであれ他者のものであれ下された倫理的判断を退けようとするはずですが、やはり倫理的判断を完全に退けることは困難でしょう。ましてや倫理的判断がそもそも行われない完全な無倫理主義的理想の実現は、倫理的判断を行い得る存在がある限りほぼ不可能でしょう。

 

そこで、無倫理主義が広まれば、倫理的判断自体を除去すること以外に、倫理的判断が生じる原因を除去することにも努めようという思いが無倫理主義者に生じてくるという事態も起こるものと思われます。

 

そのような事態に直面した際に無倫理主義者にとって問題になることとして、倫理的判断が生じる原因を除去することも、無倫理主義者であるための必要条件とするべきか否かということが挙げられます。

 

私の答えは否です。その理由の一つとしては、無倫理主義者であるための条件を厳しくすることは無倫理主義の推進を妨げると思われることがあります。しかし、より根本的な理由は、もし倫理的判断発生原因の除去を無倫理主義者であるための必要条件とすると、無倫理主義の実践のためにひたすら意識改革に努めている者を、無倫理主義者ではないと判断しなければならなくなるということです。これは明らかに不合理なことです。

 

ジンメルは覚書の中で売春を悪であるとみなす風潮が生じる原因を検討したり、その原因の消滅について展望を示したりしています。彼は無倫理主義者ではありませんでしたが、読者への啓蒙によって自らが不公正と考える風潮が生じる原因の除去に一役買おうとしたものと思われます。ここから、倫理的判断発生原因の除去は無倫理主義者であるための十分条件ではないことがわかります。

 

つまり、無倫理主義は倫理的判断発生原因の除去とは必ずしも結びついたものではないのです。このことを認識することは、両者が並行されるようになってきた際に重要になってくるでしょう。

 

 [1] 「現在と将来における売春についての覚え書き」、北川東子編訳・鈴木直訳『ジンメル・コレクション』筑摩書房ちくま学芸文庫〉、1999年、41頁。

 [2] 同上。

 [3] 同上、34頁。

 [4] 同上、35頁。

 [5] 同上。

 [6] 同上。

 [7] 同上、51頁。

 

編集記録1:2021年3月9日、注[1]の書式を修正しました。

編集記録2:2023年10月13日、「#無倫理主義」「#ジンメル」「#売春」のハッシュタグを付け、編集記録の書式を改めました。

無倫理主義の効用とその限界

 無倫理主義は倫理的攻撃を理論闘争上無効化する際に有用です。「~するべきである」とか「~しないべきである」(多くの場合、「~するべきでない」と表現される)とかといった倫理的な判断を前提とした攻撃的主張――それが口頭や文章で行われようと内心で行われようと――に対して、無倫理主義を用いて「するべきであることは何も存在しない」とか「しないべきであることは何も存在しない」とかと主張することによって、攻撃対象――それが自己であれ他者であれ――を防衛することができるのです。

 

 例として、「水に落ちた犬を見かけたら助けろ」という命令が発せられた場合を考えてみましょう。この命令が「犬の命はできる限り助けるべきである」という倫理的判断を前提として発せられたのであれば、この命令に従わない者が命令者やその支持者から「悪人である」とか「善人ではない」といった評価を攻撃的に受けることが予想されます。その際に「するべきであることは何も存在しない」という無倫理主義的主張によって命令の前提である倫理的判断を否定することができれば、命令に反抗しても倫理的攻撃的評価を受けることを免れることができるのです。

 

 このような無倫理主義的防衛はあくまでも直接的には理論上で行われるだけのものなので、うまく主張できてもその正当性が利害関係や権力関係などの実生活上の原因などによって認められないことはあり得ます。

 

 また、無倫理主義的主張の正当性が認められても、倫理的主張により発せられた命令・禁止自体を必ずしも打ち消せるとは限りません。倫理的主張とは別の理由付けがなされたり、理由付けの必要性が否定されたりして、命令・禁止自体は取り消されないということは十分あり得ます。前者の例としては、先述の「水に落ちた犬を見かけたら助けろ」という命令を、命令者が純粋な憐れみから発し続ける場合が挙げられます。そのような場合には、命令に背けば倫理的評価は伴わなくとも何らかの攻撃を受けることが十分考えられるのです。

 

 さらに、無倫理主義を採用すると、倫理的攻撃に対して倫理的反撃を加えることはできなくなります。「~するべきである」という主張に対して、倫理主義者なら理論闘争によって逆に「~しないべきである」(狭義の「~するべきでない」)ことを主張することが可能かもしれませんが、無倫理主義者は「~するべきである」ことを否定するのと同様に「~しないべきである」ことをも否定しているので、倫理的反撃は不可能なのです。

 

 例えば、魯迅は犬の恒常的な凶暴さを理由に、「水に落ちた犬」は助けないでむしろ打つべきことを主張しましたが  [1]、このようなことは無倫理主義者には不可能となります。



  [1] 「『フェアプレイ』はまだ早い」、竹内好編訳『魯迅評論集』岩波書店岩波文庫〉、1981年、74-76頁。

 

※2021年3月9日、本文中最後の一文の文字の大きさと注[1]の書式を修正しました。